禅の教えはスティーブ・ジョブズにも大きな影響を与えたことは知られておりますので、あらためにこの本を読んで見ました。
プロローグ
「初心」は空の心。それゆえ、常にどんなことも受け入れる用意がある心です。初心者の心は、全てを受け入れる慈悲の心で、心が慈悲に満ちているとき、それは無限のものになる。このとき、私たちは本当の意味で自分に正直であり、ありとあらゆるものに共感を覚える。
第1部
正しい修行
姿勢
座禅の姿勢は、左足を右ももの上に、右足を左ものの上に置く。肩から力を抜き、背骨をまっすぐに伸ばして、あごを引き、横隔膜を下腹に向かって押し下げると身体や心のバランスを保つことができます。そうすると心と身体が自己のものとなる、まさに「今」、まさに「ここ」に存在する。
以下の解説は曹洞宗公式サイトを参照させて頂きました。
呼吸
座禅の修行をするときには、そこにあるのは、ただ呼吸の動きだけです。心は完全に息に集中すべきです。
コントロール
心を何かに集中させることが禅の真の目的ではありません。禅の真の目的は、ものごとをしっかりと、ありのままに見ると言うこと、すべてを起っては消えてゆくままにしておくことです。
心の波
座禅をするとき、さまざまな感情が起ります。さまざまな思考やイメージが起ります。しかし、それはあなた自身の心の波なのです。もし、心をあるがままにしておけば、心は落ち着きます。
心の雑草
座禅をしているときに、心の波(心の雑草)を感じても、そうした波自身があなた方を助けるのです。心の波を気にかける必要はありません。むしろ心の雑草には感謝すべきです。やがてはあなたの修行を豊かにするものだからです。
禅の真髄
座禅の姿勢をとると、あなたの心と身体は、好き、嫌い、良い、悪いなしに、あるがままに受け取る偉大な力を持つ。
二つではない、ということ
私たちの修行は、ある考えを得ることでもなく、なんら期待も持つことなく行わなければなりません。それは目的なしに座ることとは違います。できる限り、心と身体で、なんの考えを得ようともせず、最善の努力を続ければ、そのとき、なにをしようと、あなたの行なうことは真の修行になるでしょう。ただ、修行を続けること、それがあなたの真の目的です。なにかをするとき、そのすること自体があなたの目的です。真の「空」は、あなたの修行で認識されるでしょう。
合掌礼拝
座禅の後、床に伏して九拝(9回のお辞儀)します。このように合掌礼拝をすることと、座る修行との間に違いはありません。仏の教えは得ることはできませんが、得ようとすべきなのが仏教です。一瞬、一瞬にベストを尽くせばそれで十分です。
特別なことはなにもない
毎週、毎年、この修行を続けましょう。そして、もっとも大事なことは、考えないこと、なにかを得られるかもしれないとは考えないこと。そうすると、やがて、あなたは、自分の本性を取り戻します。すなわち、自分の本当の姿を、再び、ここに始めるのです。
第2部
正しい態度
一途の道
禅の修業とは始まりも終わりもない道のようなものです。一瞬、一瞬に己の真の性質、誠実さを表す道なのです。
繰り返し
毎日同じことを繰り返すのは単調で大変です。しかし、元気で強い気持ちがあれば、難しくありません。
禅と興奮
落ち着いて、日常の修行を行っていれば、自分自身の人格は強いものになってゆきます。こころがいつも気ぜわしいと、人格をつくる余裕がなく、うまくいきません。夢中にならない、という私達の修行は非常に否定的に見えるかもしれません。しかし、そうではありません。自分自身に対して働きかけるには、これがいちばん賢く、効果的です。また平易なのです。
正しい努力
なにも得ようとしないで座禅をするとはどういう意味ですか、修行にはどのような努力が必要なのでしょうか、と聞かれます。答えは、修行から余分なものを取り除く努力です。もし余分な考えがやってきたら、それを止めます。あなたは純粋な修行にとどまります。それが、私達が努力を向ける方向です。
痕跡をとどめず
禅の修行とは、禅と一つになることです。そのとき、あなたもありません。座禅もありません。合掌礼拝するときには、ブッダもありません。あなたもありません。そのとき一つの完全な合掌礼拝が起るのです。
神は与える
道元禅師は、「与えることは、執着しないこと」といわれました。つまり、なにものにも執着しない、ということは、与えることなのです。与えられるものがなんであれ、それは問題ではありません。
私たちが結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢をとって座るとき、私たちは創造のもっとも基本的な活動を、今、ここで、行なっているのです。たぶん、三つの種類の創造があります。座禅を終えて立ち上がるとき、私たちは自分自身に気がつきます。座っているときは「無」です。自分が何であるかも知りません。ただ座っているのです。しかし、立ち上がるとき、あなたは、現れます! これが創造の最初のステップです。あなたがそこにいるとき、すべてもそこにあります。すべては一度につくられるのです。
修行における間違い
普通、座禅の修行をしていると、理想を追い求めすぎてしまい、獲得すべき、あるいは達成すべき理想像なりゴールなりを設定してしまいます。これはばかげています。曹洞宗では、「ただ、ただ座る」という、只管打座(しかんたざ)を大事にします。
自分の活動を制限する
私たちの修行は、特定の目的やゴールを持ちません。一切の目標を持たない修行の道とは、自分の活動を制限すること、あるいは、今、この瞬間に行なっていることに集中するということなのです。
自己を学ぶ
仏道を学ぶとは、自分を学ぶことであり、自己を学ぶとは、自己を忘れるということなのです。私たちが、自分を忘れてしまうとき、それは大いなる存在の本来の働き、あるいは、真の実在そのものなのです。このことを理解すると、世界には問題と言う物がなくなります。そして、どんな困難もなしに生きることを楽しむことができます。私たちの修行の目的とは、この事実に気がつくことなのです。
瓦を磨く
私たちの修行はただ、ひたすら座り続けること。それが真の意味での修行です。瓦を磨き続けても宝石にはなりません。座禅を続けても、ブッダにはなりません。あなたがあなたであるとき、すべてをあるがままに見ます。そして周囲と一つになるのです。そこに真の自己があります。それが真の修行です。
つねに空であること
直感的にでも空の状態を理解した人は、いつも、ものごとをありのままに受け入れる、という可能性に開かれています。すべてを受け入れます。なすことすべて、それがたとえ困難なことであっても、こうした人は、つねに問題自体を消滅させてしまうことができるでしょう。
コミュニケーション
真のコミュニケーションとはたがいに率直であることです。一番のコミュニケーションは、なにもいわず、ただ座ることです。
否定と肯定
道元禅師はいいました。「誰かになにかをいう。すると相手は、それを受け入れないときがある。しかし、そうしたときに、知的に理解させようとしてはいけない。議論してもいけない。ただ彼の反対の意見を聞き、自分が間違っていることに気づくまで、待つが良い」
涅槃とは滝のよう
座禅によって「一切は空から生まれる」、つまり、1つの川全体、あるいは一つの心全体は、空性であるという感覚を育てることはできます。心と体のすべてをもって、宇宙的な心のコントロールにまかせて、一つになった心と身体で座れば、比較的容易にこの正しい理解を得ることができます。
第3部
正しい理解
伝統的な禅の精神
修行で最も大切なのは、姿勢と呼吸の仕方です。禅は、哲学的な理解にはそれほど関心を持たないのです。私達が重んじるのは修行です。私達は、本来仏性を持っています。私達の修行とはそれに対する信頼<信心>を基礎にしているのです。
無常ということ
ブッダの基本的な教えは、ものごとは移ろうということ、変化するということです。すべての存在は変化しているため、そこには常住する私というようなものはありません。また、この教えは、涅槃の教えです。「すべては変化する」ということ、「無常である」ということ、この永遠の真実をはっきりと理解し、そこに平静さを見出すと、私達は、涅槃にいるのです。
存在の質
座禅をする目的は身体にも心にも、自由を獲得することです。自信を持って座禅に心をおけば、その心の質が、その活動そのものになります。自分という存在の質に集中すれば、その活動に対する準備ができています。座禅を行うときの、私達の落ち着いた、安定し平静な本当の性質とは、存在の広大な活動の質そのものなのです。
自然さについて
人の話しを聞くとき、自分の考えを持つべきではありません。誰かの話を聞くときに、自分自身の考えを持つべきではありません。自分の心にあることは忘れてしまって、ただ相手の言うことを聞くのです。心を無にするということ、なにも持たないということが、自然なことなのです。そのとき、あなたは相手の言うことを理解できるでしょう。しかし、もし自分の考え方というものを持ち、そしてそれを相手の言うことと比べたりすると、あなたは相手の言うことを十分には聞くことが出来ず、あなたの理解は一方的なものになります。それは自然なことではありません。
空
仏教を学ぶときには、一度、先入観というものをすべて忘れる必要があります。まず捨てなければならないのは、ものが現実にそこにあるというような実質に対する、あるいは存在ということに関する観念です。真の存在は、空から生まれ、空に戻るといいます。空から現れるもの、それが真の存在です。
待ち受けている。とらわれないで見ている mindfulness
私達の理解で大切なことは、流れるように、思考にとらわれることなく、観察をするということです。なんの滞りもなく、とらわれることなしに考え、観察しなければなりません。私達の心は、ものごとをなんの難しさもなく、ありのままに受け入れなければなりません。ありのままに理解できるように、柔らかく開かれていなければなりません。このような思考はいつも安定しています。それをマインドフルネスと呼びます。
智慧というのは、ある特定の能力のことでも、哲学のことでもありません。それは心がなにごとも受け入れて、観察できるように待機していることです。智慧は、マインドフルネスから生まれるのです。これが心の空性です。空とは、座禅の修行のことにほかなりません。
無を信じる
私が言う悟りの意味は「無を信じる」ということです。なんの形も色もなく、特定の色や形になろうといつも待っているものを信じる、ということです。この悟りは不変の真理です。この本来の心理の上に、私たちの活動や思考、そして修行の基礎が置かれなければなりません。
執着と非執着
座禅の修行と日常の活動は、一つのものです。座禅は日常の生活であり、日常の生活は座禅です。普通私たちは「座禅が終わった。さあ、毎日の仕事をしよう」と考えます。これは正しい理解ではありません。その二つは同じものです。
静けさ
座禅を行うとき、完全な心の平静さの中にいます。そのとき、なにも感じません。ただ座っているだけです。しかし、そうした座ることの静けさは、毎日の暮らしのなかで、あなたを力づけます。
哲学ではなく、体験を
人によっては、禅仏教は宗教ではないというかもしれません。そうかもしれません。あるいは禅仏教は、宗教以前の宗教なのかもしれません。そのため、普通の意味の宗教ではないのです。しかし、それはすばらしいことです。知的にそれを勉強しなくても、またカテドラルや美しい飾りを持たなくても、私たちは、自分の本来の性質に感謝することが出来ます。それは、非常に変わったことだと思うのです。
もともとの仏教
どの宗派も、自分達を別々の宗派であると考えるべきではありません。それは仏教の一時的な借りの形式です。しかし、さまざまな宗派が、このような考えを受け入れず、自分達を特定の宗派の名で呼ぶ以上、私たちも曹洞宗という仮の名を受け入れなければなりません。
意識を超えて
心はもともと空なのだ、ということをしっかりと確信すること、それが修行において、もっとも大事なことです。
ブッダの悟り
ポイントを見失い、自分が達成したことにプライドを持ったり、また理想を求めるあまり、努力が報われないと落ち込んだりしてしまうと、あなたの修行は、熱い壁の中に閉じ込められてしまいます。
エピローグ
禅の心
仏教にも、修業にも、執着しないようにしてください。私たちには初心者の心、なにかを所有することから自由な心、すべては流れる変化の中にあることを、知る心がなければなりません。
以上が、それぞれの項目として訴えていることのサマリです。これをさらにつまんでまとめると以下のようになりました。
座禅の修行をするときには、そこにあるのは、ただ呼吸の動きだけです。心は完全に息に集中すべきです。
心を何かに集中させることが禅の真の目的ではありません。禅の真の目的は、ものごとをしっかりと、ありのままに見ると言うこと、すべてを起っては消えてゆくままにしておくことです。
座禅をするとき、さまざまな感情が起ります。さまざまな思考やイメージが起ります。しかし、それはあなた自身の心の波なのです。もし、心をあるがままにしておけば、心は落ち着きます。
毎週、毎年、この修行を続けましょう。そして、もっとも大事なことは、考えないこと、なにかを得られるかもしれないとは考えないこと。そうすると、やがて、あなたは、自分の本性を取り戻します。
すなわち、自分の本当の姿を、再び、ここに始めるのです。
落ち着いて、日常の修行を行っていれば、自分自身の人格は強いものになってゆきます。こころがいつも気ぜわしいと、人格をつくる余裕がなく、うまくいきません。夢中にならない、という私達の修行は非常に否定的に見えるかもしれません。しかし、そうではありません。自分自身に対して働きかけるには、これがいちばん賢く、効果的です。また平易なのです。
禅の修行とは、禅と一つになることです。そのとき、あなたもありません。座禅もありません。合掌礼拝するときには、ブッダもありません。あなたもありません。そのとき一つの完全な合掌礼拝が起るのです。
私たちが結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢をとって座るとき、私たちは創造のもっとも基本的な活動を、今、ここで、行なっているのです。たぶん、三つの種類の創造があります。座禅を終えて立ち上がるとき、私たちは自分自身に気がつきます。座っているときは「無」です。自分が何であるかも知りません。ただ座っているのです。しかし、立ち上がるとき、あなたは、現れます! これが創造の最初のステップです。あなたがそこにいるとき、すべてもそこにあります。すべては一度につくられるのです。
普通、座禅の修行をしていると、理想を追い求めすぎてしまい、獲得すべき、あるいは達成すべき理想像なりゴールなりを設定してしまいます。これはばかげています。曹洞宗では、「ただ、ただ座る」という、只管打座(しかんたざ)を大事にします。
私たちの修行は、特定の目的やゴールを持ちません。一切の目標を持たない修行の道とは、自分の活動を制限すること、あるいは、今、この瞬間に行なっていることに集中するということなのです。
仏道を学ぶとは、自分を学ぶことであり、自己を学ぶとは、自己を忘れるということなのです。私たちが、自分を忘れてしまうとき、それは大いなる存在の本来の働き、あるいは、真の実在そのものなのです。このことを理解すると、世界には問題と言う物がなくなります。そして、どんな困難もなしに生きることを楽しむことができます。私たちの修行の目的とは、この事実に気がつくことなのです。